夕食後、ヤシンカと散歩がてら円山方面へあるく。
数年ぶりに森彦でお茶する。
時間の流れのゆったりした空気感は変わっていないようだ。
客のいない店内にMJQのCDがかかっている。
そこで自分にとっての課題図書を読んでいて
突然気づかされた、とても大切なこと。
壊れた人間関係の修復について。
自分が誰かを許せない気持ちは
その人から許されていない
=なんらかの形で傷つけられている、
そう感じているときに起きる。
だけど、相手が自分を傷つける=許さない、のは
実はその前に「何らかの形で自分が相手を傷つけた」
ということを意味する、ということ。
人は理由もなく他人を傷つけようとはしないし非難もしない。
その理由が自分にとっては理不尽なことであったとしても
それはその人にとっては非難するのに十分なものなのだ。
そのことに気づいたとき、僕の左半身が融けた。
とても大切なことが自分の身体の中に入ってきたとき
決まって左半身が反応する。
そういう身体になってしまった。
藻岩山の方に向かって歩く帰り道。
快晴、満月、星空、無風、この時期にしては高すぎる気温。
季節外れの雨降りでザラメになってしまった雪が凍った匂い。
これはまさに春山の夜の匂いだ。
いつどこの山行だったか。
夜中にテントから外に出て仰ぐ3月の裏大雪だったか。
身も心も芯から暖めてくれる
灯油ランプと石炭ストーブの燃えさかる
春の夜更けの奥手の小屋から仰ぐ星空だったか。
言えるのは今年の冬はいつもの冬とは違うということ。
満月のエネルギーを口からいただくと、また左半身が融けた。
家に着いてから久々にJAZZのレコードを聴く。
サンジェルマンのメッセンジャーズのライブ。
J.J.ジョンソンのクインテット。
アルバータ・ハンター。
久々にディープな3枚を聴いたあと、
エリントンとミンガスとマックス・ローチのトリオ。
実に邪悪な演奏だ。
とくにミンガスがエリントンのもっている邪悪さ、
もしくは「邪悪さに対する共感」を
引き出しているように思われる。
邪悪さ満載だからこその豊かな音楽だ、このレコードは。
人間誰もが持っている邪悪な要素。
しかし、邪悪とは文字通りとは限らない。
最高という時、なぜ「悪」と言いたいのか。
夏山登山の沢登りの世界でも
険しく切り立った、攻略するのが難しい深い渓谷を
「険悪」とか「悪絶」なハコ(函)という。
そして、そういうところに限って滅法美しいのだ。
そして「ひどい」「険悪だ」と言いながら
わくわくとした喜びを感じている。
滅多に人目に晒されることのない美しさに酔いしれる。
「邪悪さ」も「悲しみ」もそれが美や快に昇華されたとき、
その人の持つネガティブな要素と重ね合わせて
それを肯定し、乗り越える力になることができるのか。
ひとりごと度の高い日記を自分はなぜ公にしたいのか。
と、ふと考えてしまっている。深刻ではなく。